天文22年(1533)〜元和元年(1615)。
キリシタン大名で、利休七哲の一人。
信長、秀吉に仕え、摂津高槻城、ついで播磨明石城を領したが、秀吉のキリシタン禁教令に従わず、牢人となる。
のち、加賀前田家の客将となったが、晩年マニラで客死した。
2010年12月24日金曜日
2010年12月17日金曜日
2010年12月10日金曜日
2010年12月3日金曜日
蒲生氏郷 がもううじさと
弘治二年-文禄四年(1556-1595)。
武将。会津若松九十二万石の領主。
利休の高弟として、利休自刃の後に少庵を潜かに若松に引き取り、後に家康とともに少庵の赦免帰京に努め、千家の再興に尽力した。
利休七哲の筆頭とされる。
武将。会津若松九十二万石の領主。
利休の高弟として、利休自刃の後に少庵を潜かに若松に引き取り、後に家康とともに少庵の赦免帰京に努め、千家の再興に尽力した。
利休七哲の筆頭とされる。
2010年11月26日金曜日
粟田口善法 あわたぐちぜんぽう
東山時代に京都の粟田口に住んだ隠者。
村田珠光の弟子で寂庵と号したともいわれる。
生涯を通じて燗鍋一つで茶を飲み食事を楽しんだところから、珠光に「胸中の綺麗なるもの」(山上宗二記)と称賛されたと伝えられる。
村田珠光の弟子で寂庵と号したともいわれる。
生涯を通じて燗鍋一つで茶を飲み食事を楽しんだところから、珠光に「胸中の綺麗なるもの」(山上宗二記)と称賛されたと伝えられる。
2010年11月19日金曜日
2010年11月12日金曜日
2010年11月4日木曜日
長闇堂記 ちょうあんどうき
茶史茶説書。
奈良の侘び茶人長闇堂(*1)が、その自叙伝に茶湯見聞記および茶説を加えたもの。
見聞記には、利休・織部・遠州や津田宗及・山上宗二らの茶湯者や大名茶人の茶湯のことなども記しているので、桃山時代の茶道を知る重要な資料でもある。
*1ちょうあんどう = 久保権大夫(1571-1640)
奈良の侘び茶人長闇堂(*1)が、その自叙伝に茶湯見聞記および茶説を加えたもの。
見聞記には、利休・織部・遠州や津田宗及・山上宗二らの茶湯者や大名茶人の茶湯のことなども記しているので、桃山時代の茶道を知る重要な資料でもある。
*1ちょうあんどう = 久保権大夫(1571-1640)
2010年10月29日金曜日
鴻池道億 こうのいけどうおく
明暦元年(1655)〜元文元年(1736)。
大阪の豪商。
茶の湯を嗜み、茶道具の目利き鑑定をもって世に知られた。
所持した名物は、利休七種茶碗の大黒・東陽坊、本能寺文琳の茶入などおびただしく、その詳細は「鴻池家道具帳」に記されている。
大阪の豪商。
茶の湯を嗜み、茶道具の目利き鑑定をもって世に知られた。
所持した名物は、利休七種茶碗の大黒・東陽坊、本能寺文琳の茶入などおびただしく、その詳細は「鴻池家道具帳」に記されている。
2010年10月22日金曜日
2010年10月15日金曜日
有馬筆香合 ありまふでこうごう
形物香合番付西方二段目。
「有馬筆」の名は、この香合の蓋甲の摘みの人形が、有馬温泉土産の筆の筒先から出たり入ったりする小さな人形とよく似ていることから名付けられた。
稀に人形のないものもある。
「有馬筆」の名は、この香合の蓋甲の摘みの人形が、有馬温泉土産の筆の筒先から出たり入ったりする小さな人形とよく似ていることから名付けられた。
稀に人形のないものもある。
2010年10月8日金曜日
2010年10月1日金曜日
東陽坊 とうようぼう
京都建仁寺本坊にある茶室。
杮葺き(*1)の屋根で、二畳台目の下座床。
利休の門弟東陽坊長盛が北野大茶会のときに建てた茶室であったと伝えられる。
その後、たびたび移築が行われ、大正13年頃に現在の場所に移された。
*1 こけらぶき
杮葺き(*1)の屋根で、二畳台目の下座床。
利休の門弟東陽坊長盛が北野大茶会のときに建てた茶室であったと伝えられる。
その後、たびたび移築が行われ、大正13年頃に現在の場所に移された。
*1 こけらぶき
2010年9月29日水曜日
瀟湘八景 しょうしょうはっけい
瀟水(*1)・湘江 (*2) が合流して洞庭湖に注ぐ中国湖南地方の景勝。
詩や絵の題材となる。
山市晴嵐 (*3)・漁村夕照 (*4)・遠浦帰帆 (*5)・瀟湘夜雨 (*6)・煙寺晩鐘 (*7)・洞庭秋月 (*8)・平沙落雁 (*9)・江天暮雪 (*10) の八景。
また八景が各地で称されたが、なかでも近江八景が有名。
*1 しょうすい=中国の湖南省を流れる川
*2 しょうこう=中国の湖南省を流れる川
*3 さんしせいらん
*4 ぎょそんせきしょう
*5 えんぽきはん
*6 しょうしょうやう
*7 えんじばんしょう
*8 どうていしゅうげつ
*9 へいさらくがん
*10 こうてんぼせつ
詩や絵の題材となる。
山市晴嵐 (*3)・漁村夕照 (*4)・遠浦帰帆 (*5)・瀟湘夜雨 (*6)・煙寺晩鐘 (*7)・洞庭秋月 (*8)・平沙落雁 (*9)・江天暮雪 (*10) の八景。
また八景が各地で称されたが、なかでも近江八景が有名。
*1 しょうすい=中国の湖南省を流れる川
*2 しょうこう=中国の湖南省を流れる川
*3 さんしせいらん
*4 ぎょそんせきしょう
*5 えんぽきはん
*6 しょうしょうやう
*7 えんじばんしょう
*8 どうていしゅうげつ
*9 へいさらくがん
*10 こうてんぼせつ
2010年9月17日金曜日
塩竈池 しおがまのいけ
名水の一つ。
京都市の寺町五条本覚寺の境内にある。
かつては塩竈の井戸があったと伝えられているが、水脈が断たれた現在は池だけが残っている。
「塩竈井」と刻まれた石の井筒も現在では所在不明となっている。
京都市の寺町五条本覚寺の境内にある。
かつては塩竈の井戸があったと伝えられているが、水脈が断たれた現在は池だけが残っている。
「塩竈井」と刻まれた石の井筒も現在では所在不明となっている。
2010年9月10日金曜日
井伊直弼 いいなおすけ
(1815-1860) 彦根藩主で茶名は宗観と称した。
茶法は石州流を極めた。
幕末期に大老職につき日米修好通商条約を調印、攘夷派を弾圧したが、万延元年、桜田門外に46歳の生涯を閉じた。
その著書に「茶湯一会集」「閑夜茶話」などがある。
茶法は石州流を極めた。
幕末期に大老職につき日米修好通商条約を調印、攘夷派を弾圧したが、万延元年、桜田門外に46歳の生涯を閉じた。
その著書に「茶湯一会集」「閑夜茶話」などがある。
2010年9月3日金曜日
佐久間将監 さくましょうかん
(1570-1642) 名は真勝(*1)。武人。
寸松庵(*2)の名で知られる。
徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え、茶は織部の薫陶を受けたと伝えられる。
江月和尚の知遇を得て大徳寺龍光院(*3)に隠居所を設けた。
その秘蔵の伝紀貫之筆の色紙が寸松庵色紙の称で珍重される。
*1 さねかつ
*2 すんしょうあん
*3 りゅうこういん
寸松庵(*2)の名で知られる。
徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え、茶は織部の薫陶を受けたと伝えられる。
江月和尚の知遇を得て大徳寺龍光院(*3)に隠居所を設けた。
その秘蔵の伝紀貫之筆の色紙が寸松庵色紙の称で珍重される。
*1 さねかつ
*2 すんしょうあん
*3 りゅうこういん
2010年8月27日金曜日
2010年8月20日金曜日
2010年8月13日金曜日
2010年8月6日金曜日
利休七種 りきゅうしちしゅ
楽家初代の長次郎が作り、利休が選んだと伝えられる茶碗七種。
長次郎七種ともいい、内七種・外七種の別がある。
内七種は東陽坊,大黒,鉢開(以上黒),臨済,木守,早船,検校(以上赤)、
外七種は雁鳥,閑居,小黒(以上黒),一文字,太郎坊,聖,横雲(以上赤)。
長次郎七種ともいい、内七種・外七種の別がある。
内七種は東陽坊,大黒,鉢開(以上黒),臨済,木守,早船,検校(以上赤)、
外七種は雁鳥,閑居,小黒(以上黒),一文字,太郎坊,聖,横雲(以上赤)。
2010年7月30日金曜日
徳川治宝 とくがわはるとみ
(1771-1853)紀州徳川家第10代。
寛政元年55万5千石を襲封。
藩政の改革につとめる傍ら文学・芸術に大いに意を注ぐ。
茶の修道に励むとともに、当時の名工を招き偕楽園御庭焼(*1)・御庭織を製作させるなど、風流大名の名を上げた。
*1 かいらくえんおにわやき
寛政元年55万5千石を襲封。
藩政の改革につとめる傍ら文学・芸術に大いに意を注ぐ。
茶の修道に励むとともに、当時の名工を招き偕楽園御庭焼(*1)・御庭織を製作させるなど、風流大名の名を上げた。
*1 かいらくえんおにわやき
2010年7月23日金曜日
2010年7月16日金曜日
2010年7月9日金曜日
破れ虚堂 やれきどう
国宝。墨跡。 東京国立博物館蔵。
中国南宋時代末期の禅僧虚堂智愚(*1)が、日本から参禅した無象静照(*2)に与えたとされる法語。
寛永14年、京都の大文字屋で使用人八兵衛の手によって破られたことからこの名がある。
*1 きどうちぐう
*2 むしょうじょうしょう
中国南宋時代末期の禅僧虚堂智愚(*1)が、日本から参禅した無象静照(*2)に与えたとされる法語。
寛永14年、京都の大文字屋で使用人八兵衛の手によって破られたことからこの名がある。
*1 きどうちぐう
*2 むしょうじょうしょう
2010年7月2日金曜日
2010年6月25日金曜日
2010年6月18日金曜日
茶杓三百選 ちゃしゃくせんびゃくせん
書名。昭和28,29年に刊行。高原杓庵(*1)編。
茶杓の名作300杓を写真を添えて解説したもの。
「古流利休系篇」「大名芸林派篇」「流儀篇」の三篇からなる。
同四十年には新たに112杓を収めた『茶杓拾遺集』を刊行。
*1 たかはらしゃくあん =茶杓研究家、毎日新聞学芸部副部長から白鶴美術館に勤務。
茶杓の名作300杓を写真を添えて解説したもの。
「古流利休系篇」「大名芸林派篇」「流儀篇」の三篇からなる。
同四十年には新たに112杓を収めた『茶杓拾遺集』を刊行。
*1 たかはらしゃくあん =茶杓研究家、毎日新聞学芸部副部長から白鶴美術館に勤務。
2010年6月11日金曜日
高橋箒庵 たかはしそうあん
(1861-1937) 名は義雄。
『大正名器鑑』の編集者。
旧水戸藩士の出で、時事新報記者となる。
益田鈍翁等と親交があり、明治45年三井合名理事を最後に実業界を退いて後は、自邸に寸松庵・白紙庵などを建て茶事を楽しんだ。
名物茶器の鑑定と記録等の著述多数あり
『大正名器鑑』の編集者。
旧水戸藩士の出で、時事新報記者となる。
益田鈍翁等と親交があり、明治45年三井合名理事を最後に実業界を退いて後は、自邸に寸松庵・白紙庵などを建て茶事を楽しんだ。
名物茶器の鑑定と記録等の著述多数あり
2010年6月4日金曜日
2010年5月28日金曜日
2010年5月21日金曜日
利休七則 りきゅうしちそく
茶湯の教則。
「利休七ヶ条」ともいう。
「一、花は野にある様、一、炭は湯の煮ゆる様、一、夏は涼しく、一、冬はあたたかに、一、刻限は早目に、一、天気にても雨の用意、一、相客に心をつけ候事」との七条を示している。
「利休七ヶ条」ともいう。
「一、花は野にある様、一、炭は湯の煮ゆる様、一、夏は涼しく、一、冬はあたたかに、一、刻限は早目に、一、天気にても雨の用意、一、相客に心をつけ候事」との七条を示している。
2010年5月14日金曜日
2010年5月7日金曜日
2010年4月30日金曜日
根津美術館 ねづびじゅつかん
東京の南青山にあり、東武鉄道の社長などを務めた根津嘉一郎(1860~1940)が蒐集した日本・東洋の古美術品を保存、展観を行っている。
中でも仏教美術、青銅器、茶の湯道具については世界的にも傑出したコレクションを誇っている。
根津美術館のサイトはこちら。
中でも仏教美術、青銅器、茶の湯道具については世界的にも傑出したコレクションを誇っている。
根津美術館のサイトはこちら。
2010年4月23日金曜日
2010年4月16日金曜日
松永耳庵 まつながじあん
(1875~1971)本名 安左ヱ門。
長崎県壱岐の出身で、慶応義塾に学び、後に福沢桃介(*1)を助けて福松商会を創め、しだいに実業界に名を得、その手腕は電力界の鬼とまで評された。
一方茶道の理論にも通じ『茶道春秋』をはじめ数々の著述が残されている。
(*1)ふくざわももすけ = 福沢諭吉の養子で「日本の電力王」と呼ばれる。
長崎県壱岐の出身で、慶応義塾に学び、後に福沢桃介(*1)を助けて福松商会を創め、しだいに実業界に名を得、その手腕は電力界の鬼とまで評された。
一方茶道の理論にも通じ『茶道春秋』をはじめ数々の著述が残されている。
(*1)ふくざわももすけ = 福沢諭吉の養子で「日本の電力王」と呼ばれる。
2010年4月9日金曜日
閑翁宗拙 かんのうそうせつ
(?〜1938) 号 壺天。
宗旦の長男でまた茶法も宗旦から受けたが、代は継がずに別に一家を構えた。
書は光悦に学び達筆である。
また法衣を着し大刀を佩びた画像が伝えられているが、その風貌から気骨ある人物であったことがうかがわれる。
宗旦の長男でまた茶法も宗旦から受けたが、代は継がずに別に一家を構えた。
書は光悦に学び達筆である。
また法衣を着し大刀を佩びた画像が伝えられているが、その風貌から気骨ある人物であったことがうかがわれる。
2010年4月2日金曜日
2010年3月26日金曜日
編笠門 あみがさもん
門の一形式。
屋根が編笠状をなしているのでこの名があり、独特のわびた趣を見せている。
柿葺(*1)・檜皮葺(*2)の屋根が多く、露地の中門などに使われている。
官休庵の露地の中門、大徳寺孤篷庵(*3)の方丈前庭にある中門などがこれである。
*1 こけらぶき
*2 ひわだぶき
*3 だいとくじこほうあん
屋根が編笠状をなしているのでこの名があり、独特のわびた趣を見せている。
柿葺(*1)・檜皮葺(*2)の屋根が多く、露地の中門などに使われている。
官休庵の露地の中門、大徳寺孤篷庵(*3)の方丈前庭にある中門などがこれである。
*1 こけらぶき
*2 ひわだぶき
*3 だいとくじこほうあん
2010年3月19日金曜日
同朋衆 どうぼうしゅう
室町から江戸時代にかけ、将軍や大名に近侍し雑役や諸芸能を司った僧体で、多くが阿弥(*1)号を称した。
足利義政に仕え、唐物の管理、座敷飾り等を統括した能阿弥(*2)・芸阿弥(*3)・相阿弥(*4)の三代や、猿楽能の大成者の観阿弥(*5)・世阿弥(*6)父子などが同朋として活躍した。
*1 あみ
*2 のうあみ
*3 げいあみ
*4 そうあみ
*5 かんなみ
*6 ぜあみ
足利義政に仕え、唐物の管理、座敷飾り等を統括した能阿弥(*2)・芸阿弥(*3)・相阿弥(*4)の三代や、猿楽能の大成者の観阿弥(*5)・世阿弥(*6)父子などが同朋として活躍した。
*1 あみ
*2 のうあみ
*3 げいあみ
*4 そうあみ
*5 かんなみ
*6 ぜあみ
2010年3月12日金曜日
2010年3月5日金曜日
呉器茶碗 ごきちゃわん
高麗茶碗の一種。
呉器とは、本来禅院で用いる塗椀のことをいうが、李朝時代に朝鮮でつくられたこの手の茶碗が、いかにもこの塗椀に似ているところからの名称。
高い撥形(*1)の高台で、見込が深く淡灰色の肌に赤い斑紋の出たものが多い。
*1 ばちがた
呉器とは、本来禅院で用いる塗椀のことをいうが、李朝時代に朝鮮でつくられたこの手の茶碗が、いかにもこの塗椀に似ているところからの名称。
高い撥形(*1)の高台で、見込が深く淡灰色の肌に赤い斑紋の出たものが多い。
*1 ばちがた
2010年2月26日金曜日
2010年2月19日金曜日
2010年2月12日金曜日
山口吉郎兵衛 やまぐちきちろべえ
明治16年~昭和26年。
わずか4歳で第百四十八銀行の後継者となり、15歳の時山口銀行を設立、大阪実業界に重きをなした。
若年より美術を好み、その研究は専門家を凌ぐと言われた。
現在芦屋自邸跡に山口文化会館・滴翠美術館が開かれている。
わずか4歳で第百四十八銀行の後継者となり、15歳の時山口銀行を設立、大阪実業界に重きをなした。
若年より美術を好み、その研究は専門家を凌ぐと言われた。
現在芦屋自邸跡に山口文化会館・滴翠美術館が開かれている。
2010年2月5日金曜日
菊水の井 きくすいのい
京都室町四条の金剛能楽堂内にあり、武野紹鴎の夷堂の手洗い井戸であったという伝えがある。
また、高台寺の下道、下河原通りにも、ほかに菊水の井と言われる名水があり、三条小鍛冶がこの水で刀を鍛えていたという。
また、高台寺の下道、下河原通りにも、ほかに菊水の井と言われる名水があり、三条小鍛冶がこの水で刀を鍛えていたという。
2010年1月29日金曜日
茶話指月集 ちゃわしげつしゅう
二巻一冊の茶話・茶史書。
藤村庸軒が師の千宗旦の茶話を聞き書きしたもの。
庸軒の娘婿の久須美疎安(*1)の編纂。
宗旦の茶話として利休の茶湯や利休の逸話が多く収められているので有名。
元禄10年(1679)序、同14年版行。
*1 ふじむらようけん = 慶長18年~元禄12年(1613-99) 宗旦四天王の一人
*1 くすみそあん = 寛永13年~享保13年(1636-1728) 宗旦四天王に加える説もある。
藤村庸軒が師の千宗旦の茶話を聞き書きしたもの。
庸軒の娘婿の久須美疎安(*1)の編纂。
宗旦の茶話として利休の茶湯や利休の逸話が多く収められているので有名。
元禄10年(1679)序、同14年版行。
*1 ふじむらようけん = 慶長18年~元禄12年(1613-99) 宗旦四天王の一人
*1 くすみそあん = 寛永13年~享保13年(1636-1728) 宗旦四天王に加える説もある。
2010年1月22日金曜日
2010年1月15日金曜日
南方録 なんぼうろく
博多の立花家に千利休の秘伝書として伝わった全七巻の茶伝書。
堺南宗寺集雲庵の僧、南坊宗啓が書いたと記されているが、実在が確認できず、原本の発見者の立花実山が編集したと考えられている。
重要資料として現在の「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えた。
堺南宗寺集雲庵の僧、南坊宗啓が書いたと記されているが、実在が確認できず、原本の発見者の立花実山が編集したと考えられている。
重要資料として現在の「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えた。
2010年1月8日金曜日
花びら餅 はなびらもち
ごぼうと白味噌餡とピンク色の餅を、餅もしくは求肥(*1)で包んだ和菓子。
平安時代の新年行事「歯固めの儀式」を簡略化したもので、宮中のおせち料理の一つと考えられてきたが、後に新年のお菓子として使われるようになった。
*1ぎゅうひ=もち米の粉をといて蒸したもの
平安時代の新年行事「歯固めの儀式」を簡略化したもので、宮中のおせち料理の一つと考えられてきたが、後に新年のお菓子として使われるようになった。
*1ぎゅうひ=もち米の粉をといて蒸したもの
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