2010年12月24日金曜日

高山右近 たかやまうこん

天文22年(1533)〜元和元年(1615)。

キリシタン大名で、利休七哲の一人。

信長、秀吉に仕え、摂津高槻城、ついで播磨明石城を領したが、秀吉のキリシタン禁教令に従わず、牢人となる。

のち、加賀前田家の客将となったが、晩年マニラで客死した。

2010年12月17日金曜日

俊寛 しゅんかん

長次郎作。 黒楽茶碗。

利休が薩摩の門人に長次郎茶碗を三碗世話したところ、二碗が返送されこの一碗が残ったので、鬼界ヶ島の俊寛一人が残された故事に因んで銘された。

内箱「俊寛」の二字、張紙は利休、「長次郎黒茶碗」の六字は宗旦の書付。

2010年12月10日金曜日

波の花 なみのはな

冬の風物詩。

寒いよく晴れて風の強い日に、岩場の多い海辺で見られる、波が白い泡のかたまりとなったもの。

押し寄せる荒波が岩場に砕けて、風で湧き立ち、白い泡ができる。

この泡が磯一帯に白い花が群がり咲いた様になることから波の花という。

2010年12月3日金曜日

蒲生氏郷 がもううじさと

弘治二年-文禄四年(1556-1595)。

武将。会津若松九十二万石の領主。

利休の高弟として、利休自刃の後に少庵を潜かに若松に引き取り、後に家康とともに少庵の赦免帰京に努め、千家の再興に尽力した。

利休七哲の筆頭とされる。

2010年11月26日金曜日

粟田口善法 あわたぐちぜんぽう

東山時代に京都の粟田口に住んだ隠者。

村田珠光の弟子で寂庵と号したともいわれる。

生涯を通じて燗鍋一つで茶を飲み食事を楽しんだところから、珠光に「胸中の綺麗なるもの」(山上宗二記)と称賛されたと伝えられる。

2010年11月19日金曜日

松尾流 まつおりゅう

茶道流派の一つ。

松尾家の遠祖の辻玄哉 (*1)が紹鴎の高弟として茶の湯を学び、台子茶湯の秘事相伝を授けられ初代となる。

以後、5代までは玄哉と同じく呉服商を業としたが、6代にあたる楽只斎宗二が覚々斎(*2)の門下に入り奥義に達し、松尾流を名乗った。


*1 つじげんさい
*2 かくかくさい = 表千家6代

2010年11月12日金曜日

光悦会 こうえつかい

本阿弥光悦の遺徳を偲ぶ茶会。

土橋嘉兵衛・山中定次郎らが世話役となり、三井松籟・益田鈍翁・馬越化生・団琢磨などの賛助を得て、大正4年に財団法人として発足、鷹ヶ峰光悦寺に大虚庵・騎牛庵・本阿弥庵などを新築して盛大に開かれた。

今も毎年11月に行われている。

2010年11月4日木曜日

長闇堂記 ちょうあんどうき

茶史茶説書。

奈良の侘び茶人長闇堂(*1)が、その自叙伝に茶湯見聞記および茶説を加えたもの。

見聞記には、利休・織部・遠州や津田宗及・山上宗二らの茶湯者や大名茶人の茶湯のことなども記しているので、桃山時代の茶道を知る重要な資料でもある。


*1ちょうあんどう = 久保権大夫(1571-1640)

2010年10月29日金曜日

鴻池道億 こうのいけどうおく

明暦元年(1655)〜元文元年(1736)。

大阪の豪商。

茶の湯を嗜み、茶道具の目利き鑑定をもって世に知られた。

所持した名物は、利休七種茶碗の大黒・東陽坊、本能寺文琳の茶入などおびただしく、その詳細は「鴻池家道具帳」に記されている。

2010年10月22日金曜日

筒井筒 つついづつ

名物。

筒井順慶から豊臣秀吉に献ぜられその秘蔵となったが、
近習が 取り落として五つに割れた時、
同席していた細川幽斎が「伊勢物語」の古歌をもじって

「筒井筒五つにかけし井戸茶碗 とが(*1)をば我に 負いにけらしな」(*2)

と狂歌してとりなしたという逸話がある。


*1とが = 咎 あやまち、過失
*2 本歌 = 「筒井筒井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに」

2010年10月15日金曜日

有馬筆香合 ありまふでこうごう

形物香合番付西方二段目。

「有馬筆」の名は、この香合の蓋甲の摘みの人形が、有馬温泉土産の筆の筒先から出たり入ったりする小さな人形とよく似ていることから名付けられた。

稀に人形のないものもある。


2010年10月8日金曜日

土風炉 どぶろ

土でつくった風炉。

奈良風炉が有名。

奈良の春日社興福寺の土器の工人座が火鉢などを作っていたが、茶道の発展とともに土風炉を製作したのが始まり。

永楽家の祖の土風炉師宗四郎が、やがて京都に移り秀吉から天下一の称を授かった。

2010年10月1日金曜日

東陽坊 とうようぼう

京都建仁寺本坊にある茶室。

杮葺き(*1)の屋根で、二畳台目の下座床。

利休の門弟東陽坊長盛が北野大茶会のときに建てた茶室であったと伝えられる。

その後、たびたび移築が行われ、大正13年頃に現在の場所に移された。

*1 こけらぶき

2010年9月29日水曜日

瀟湘八景 しょうしょうはっけい

瀟水(*1)・湘江 (*2) が合流して洞庭湖に注ぐ中国湖南地方の景勝。

詩や絵の題材となる。

山市晴嵐 (*3)・漁村夕照 (*4)・遠浦帰帆 (*5)・瀟湘夜雨 (*6)・煙寺晩鐘 (*7)・洞庭秋月 (*8)・平沙落雁 (*9)・江天暮雪 (*10) の八景。

また八景が各地で称されたが、なかでも近江八景が有名。

*1 しょうすい=中国の湖南省を流れる川
*2 しょうこう=中国の湖南省を流れる川
*3 さんしせいらん
*4 ぎょそんせきしょう
*5 えんぽきはん
*6 しょうしょうやう
*7 えんじばんしょう
*8 どうていしゅうげつ
*9 へいさらくがん
*10 こうてんぼせつ

2010年9月17日金曜日

塩竈池 しおがまのいけ

名水の一つ。

京都市の寺町五条本覚寺の境内にある。

かつては塩竈の井戸があったと伝えられているが、水脈が断たれた現在は池だけが残っている。

「塩竈井」と刻まれた石の井筒も現在では所在不明となっている。 

2010年9月10日金曜日

井伊直弼 いいなおすけ

(1815-1860) 彦根藩主で茶名は宗観と称した。

茶法は石州流を極めた。

幕末期に大老職につき日米修好通商条約を調印、攘夷派を弾圧したが、万延元年、桜田門外に46歳の生涯を閉じた。

その著書に「茶湯一会集」「閑夜茶話」などがある。

2010年9月3日金曜日

佐久間将監 さくましょうかん

(1570-1642) 名は真勝(*1)。武人。

寸松庵(*2)の名で知られる。

徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え、茶は織部の薫陶を受けたと伝えられる。

江月和尚の知遇を得て大徳寺龍光院(*3)に隠居所を設けた。

その秘蔵の伝紀貫之筆の色紙が寸松庵色紙の称で珍重される。

*1 さねかつ
*2 すんしょうあん
*3 りゅうこういん

2010年8月27日金曜日

小倉色紙 おぐらしきし

藤原定家(*1)筆。『百人一首』

歌仙百人の秀歌を一首四行に書いている。

定家が小倉山の山荘の障子に押していたと伝え、「小倉山荘色紙」の名もある。

天文24年(1555)、武野紹鷗(*2)がこの色紙を用いて以来、
茶の世界で古筆の一級品としてもてはやされた。

*1 ふじわらのさだいえ = 1162-1241
*2 たけのじょうおう = 1502-1555


2010年8月20日金曜日

螺鈿 らでん

漆芸技法の一種。

貝殻を文様に切って、漆面や木地にはめ込んだり貼り付けたりすること。

夜光貝、蝶貝、鮑などを使う。

螺鈿の技法は古代エジプトに見られるが、わが国には奈良時代に中国より渡来し、正倉院御物中に優れた大作が見られる。

2010年8月13日金曜日

茶粥 ちゃがゆ

茶の煎じ汁で煮た粥をいう。

江戸の初め、お茶の産地だった奈良で上納したあとに残ったお茶で炊いたお粥が茶粥の始まりで、「奈良茶」ともいう。

山口県宇部地方などにも古くから茶粥の風習がある。

朝茶事の懐石などでよく用いられる。

2010年8月6日金曜日

利休七種 りきゅうしちしゅ

楽家初代の長次郎が作り、利休が選んだと伝えられる茶碗七種。

長次郎七種ともいい、内七種・外七種の別がある。

内七種は東陽坊,大黒,鉢開(以上黒),臨済,木守,早船,検校(以上赤)、
外七種は雁鳥,閑居,小黒(以上黒),一文字,太郎坊,聖,横雲(以上赤)。

2010年7月30日金曜日

徳川治宝 とくがわはるとみ

(1771-1853)紀州徳川家第10代。

寛政元年55万5千石を襲封。

藩政の改革につとめる傍ら文学・芸術に大いに意を注ぐ。

茶の修道に励むとともに、当時の名工を招き偕楽園御庭焼(*1)・御庭織を製作させるなど、風流大名の名を上げた。


*1 かいらくえんおにわやき

2010年7月23日金曜日

茶経 ちゃきょう

最古の茶書。

中国唐代の文人、陸羽(*1)の著。

758年から761年の間に著述されたと推定される。

「茶は南方の嘉木なり」の文句にはじまる。

後世の日本でも評価が高く、江戸時代には何度かにわたって木版で印刷・出版された。

*1 りくう = (?〜 804年ごろ)

2010年7月16日金曜日

鳥の子紙 とりのこがみ

和紙の一種。

雁皮(*1)、楮(*2)に三椏(*3)を混ぜて漉いた良質の和紙。

淡黄色を帯び、卵の殻の色に似ているのでこの名がある。

鎌倉時代にはじまる。紙質は厚く、緻密で、光沢がある。

主産地は越前岡本(*4)で、これを伝えた摂津名塩(*5)も知られている。


*1 がんぴ
*2 こうぞ
*3 みつまた
*4 現在の福井県越前市
*5 現在の兵庫県西宮市

2010年7月9日金曜日

破れ虚堂 やれきどう

国宝。墨跡。 東京国立博物館蔵。

中国南宋時代末期の禅僧虚堂智愚(*1)が、日本から参禅した無象静照(*2)に与えたとされる法語。

寛永14年、京都の大文字屋で使用人八兵衛の手によって破られたことからこの名がある。

*1 きどうちぐう
*2 むしょうじょうしょう

2010年7月2日金曜日

古帛紗 こぶくさ

小帛紗ともいう、五寸角大の帛紗。

利休の妻、宗恩(*1)が現行の帛紗の寸法を考案したといわれ、それに対して古法で小さいというので「古帛紗」「小帛紗」といわれる。

流儀により、濃茶、茶箱などの点前に用いたり、器物拝見の際に使う。


*1 そうおん

2010年6月25日金曜日

在銘 ざいめい

茶碗・茶入・茶杓などに銘や作者名などを記すこと。

直接品物に直書したものには、漆書や墨書、また針彫などがある。

また箱に銘の書かれることも多く、大名系の箱書では蓋の表に、千家や薮内家の各流では蓋裏に書かれることが多い。

2010年6月18日金曜日

茶杓三百選 ちゃしゃくせんびゃくせん

書名。昭和28,29年に刊行。高原杓庵(*1)編。

茶杓の名作300杓を写真を添えて解説したもの。

「古流利休系篇」「大名芸林派篇」「流儀篇」の三篇からなる。

同四十年には新たに112杓を収めた『茶杓拾遺集』を刊行。


*1 たかはらしゃくあん =茶杓研究家、毎日新聞学芸部副部長から白鶴美術館に勤務。

2010年6月11日金曜日

高橋箒庵 たかはしそうあん

(1861-1937) 名は義雄。

『大正名器鑑』の編集者。

旧水戸藩士の出で、時事新報記者となる。

益田鈍翁等と親交があり、明治45年三井合名理事を最後に実業界を退いて後は、自邸に寸松庵・白紙庵などを建て茶事を楽しんだ。

名物茶器の鑑定と記録等の著述多数あり

2010年6月4日金曜日

総見院 そうけんいん

紫野大徳寺の塔頭(*1)。

天正10年、本能寺の変で亡くなった織田信長の菩提を弔うため、豊臣秀吉が創建。

開山は千利休の師匠として知られる古渓宗陳(*2)。

同13年の大徳寺大茶会はここの方丈(*3)が秀吉の囲いとされ、中心会場となった。

*1 たっちゅう = 5/28登録分参照
*2 こけいそうちん = (1532〜1597)
*3 ほうじょう

2010年5月28日金曜日

塔頭 たっちゅう

本来は、禅寺で祖師や高僧の死後、弟子が師の徳を慕って、その墓塔の頭(*1)やその敷地内に建てた小院のこと。

それから転じて、寺院の敷地内にある、高僧が隠退後に住した子院のこともそう呼ぶようになった。

塔中(*2)、塔院(*3)、寺中(*4)とも。

*1 ほとり
*2 たっちゅう
*3 とういん
*4 じちゅう

2010年5月21日金曜日

利休七則 りきゅうしちそく

茶湯の教則。

「利休七ヶ条」ともいう。

「一、花は野にある様、一、炭は湯の煮ゆる様、一、夏は涼しく、一、冬はあたたかに、一、刻限は早目に、一、天気にても雨の用意、一、相客に心をつけ候事」との七条を示している。

2010年5月14日金曜日

石州流 せきしゅうりゅう

千道安から桑山宗仙(*1)に伝わった利休の茶の湯を片桐石州が受け継ぎ、さらに独自の作意を加えた流派。

石州は四代将軍徳川家綱の茶道師範であった関係で、全国の大名や旗本などの間で広まった。

藤林流(*2)、怡渓派(*3)、不昧派(*4)など多くの分派・別派に分かれている。

*1 くわやまそうせん
*2 ふじばやしりゅう
*3 いけいは
*4 ふまいは

2010年5月7日金曜日

塵穴 ちりあな

露地内の塵や落ち葉などを拾っていれるために設けられた穴。

露地を通ってきた客が最後の心の塵を落とすべく、中を確認して席入りする。

広い路地では2ヶ所以上設けることもある。

外露地の方は方形、内露地の方は概ね円形とする。


2010年4月30日金曜日

根津美術館 ねづびじゅつかん

東京の南青山にあり、東武鉄道の社長などを務めた根津嘉一郎(1860~1940)が蒐集した日本・東洋の古美術品を保存、展観を行っている。

中でも仏教美術、青銅器、茶の湯道具については世界的にも傑出したコレクションを誇っている。


根津美術館のサイトはこちら。

2010年4月23日金曜日

片栗 かたくり

ユリ科。原野や丘陵地に自生する多年草。

4月頃紅紫色の可憐な花を下向きにつける。

葉は淡緑色で粉をふいたように白色を帯び、大小色々な形の斑紋があって色合いが美しい。

この花の球根から採った澱粉(*1)がほんとうの片栗粉である。

*1 でんぷん

2010年4月16日金曜日

松永耳庵 まつながじあん

(1875~1971)本名 安左ヱ門。

長崎県壱岐の出身で、慶応義塾に学び、後に福沢桃介(*1)を助けて福松商会を創め、しだいに実業界に名を得、その手腕は電力界の鬼とまで評された。

一方茶道の理論にも通じ『茶道春秋』をはじめ数々の著述が残されている。


(*1)ふくざわももすけ = 福沢諭吉の養子で「日本の電力王」と呼ばれる。

2010年4月9日金曜日

閑翁宗拙 かんのうそうせつ

(?〜1938) 号 壺天。

宗旦の長男でまた茶法も宗旦から受けたが、代は継がずに別に一家を構えた。

書は光悦に学び達筆である。

また法衣を着し大刀を佩びた画像が伝えられているが、その風貌から気骨ある人物であったことがうかがわれる。

2010年4月2日金曜日

江戸千家 えどせんけ

川上不白(*1)を開祖とする流派の一つ。

不白は表千家7代如心斎宗左のもとで薫陶を受け、30歳のころ師の命を受けて江戸へ下り、千家の茶を広めることに尽力。

爾来二百十有余年、維新後の欧化主義や大戦など、幾多の混乱期を乗り越えて守られてきた。

*1 かわかみふはく

2010年3月26日金曜日

編笠門 あみがさもん

門の一形式。

屋根が編笠状をなしているのでこの名があり、独特のわびた趣を見せている。

柿葺(*1)・檜皮葺(*2)の屋根が多く、露地の中門などに使われている。

官休庵の露地の中門、大徳寺孤篷庵(*3)の方丈前庭にある中門などがこれである。

*1 こけらぶき
*2 ひわだぶき
*3 だいとくじこほうあん

2010年3月19日金曜日

同朋衆 どうぼうしゅう

室町から江戸時代にかけ、将軍や大名に近侍し雑役や諸芸能を司った僧体で、多くが阿弥(*1)号を称した。

足利義政に仕え、唐物の管理、座敷飾り等を統括した能阿弥(*2)・芸阿弥(*3)・相阿弥(*4)の三代や、猿楽能の大成者の観阿弥(*5)・世阿弥(*6)父子などが同朋として活躍した。

*1 あみ
*2 のうあみ
*3 げいあみ
*4 そうあみ
*5 かんなみ
*6 ぜあみ

2010年3月12日金曜日

葦手絵 あしでえ

文字を絵画に採り入れたわが国特有の装飾美を示すもので、葦、岩石、流水、水鳥など水辺の景物に文字を隠すように絵画化したもの。

蒔絵などの工芸意匠の中に文字をデザイン化して散らしたものも葦手絵と呼ばれる。
平安時代から流行した。

2010年3月5日金曜日

呉器茶碗 ごきちゃわん

高麗茶碗の一種。
呉器とは、本来禅院で用いる塗椀のことをいうが、李朝時代に朝鮮でつくられたこの手の茶碗が、いかにもこの塗椀に似ているところからの名称。

高い撥形(*1)の高台で、見込が深く淡灰色の肌に赤い斑紋の出たものが多い。

*1 ばちがた

2010年2月26日金曜日

迎付 むかえつけ

茶事などにおいて、案内により露地の腰掛へ降り用意をして待っている客を、亭主が中門あたりまで出向いて鄭重に迎えること。

また、中立(*3)後などで銅鑼(*1)や喚鐘(*2)などの鳴り物を合図として迎えつけることもある。

*1 どら
*2 かんしょう
*3 なかだち = 2月19日版にて説明

2010年2月19日金曜日

中立 なかだち

茶事において、初座(*1)(炭点前と懐石)と後座(*2)(濃茶)の間に客は露地の腰掛へ立つ。

これを中立という。中起ちとも書く。

中立の間を利用して、亭主は席の飾り付けなどをあらため、ふたたび客に席入りを請う。

*1 しょざ
*2 ござ

2010年2月12日金曜日

山口吉郎兵衛 やまぐちきちろべえ

明治16年~昭和26年。
わずか4歳で第百四十八銀行の後継者となり、15歳の時山口銀行を設立、大阪実業界に重きをなした。

若年より美術を好み、その研究は専門家を凌ぐと言われた。

現在芦屋自邸跡に山口文化会館・滴翠美術館が開かれている。

2010年2月5日金曜日

菊水の井 きくすいのい

京都室町四条の金剛能楽堂内にあり、武野紹鴎の夷堂の手洗い井戸であったという伝えがある。

また、高台寺の下道、下河原通りにも、ほかに菊水の井と言われる名水があり、三条小鍛冶がこの水で刀を鍛えていたという。

2010年1月29日金曜日

茶話指月集 ちゃわしげつしゅう

二巻一冊の茶話・茶史書。

藤村庸軒が師の千宗旦の茶話を聞き書きしたもの。

庸軒の娘婿の久須美疎安(*1)の編纂。

宗旦の茶話として利休の茶湯や利休の逸話が多く収められているので有名。

元禄10年(1679)序、同14年版行。

*1 ふじむらようけん = 慶長18年~元禄12年(1613-99) 宗旦四天王の一人
*1 くすみそあん = 寛永13年~享保13年(1636-1728) 宗旦四天王に加える説もある。

2010年1月22日金曜日

稲妻 いなづま

ノンコウ(楽家三代の道入)作の黒茶碗。
ノンコウ七種の内。

江岑(*1)銘で、漆黒の地に朱釉が交わった景色を稲妻と見立てて名付けられた。

表千家伝来で由緒深く、家元の代替わりの茶事にのみ持ち出されるのが習わしである。

*1 こうしん=表千家四代

2010年1月15日金曜日

南方録 なんぼうろく

博多の立花家に千利休の秘伝書として伝わった全七巻の茶伝書。

堺南宗寺集雲庵の僧、南坊宗啓が書いたと記されているが、実在が確認できず、原本の発見者の立花実山が編集したと考えられている。

重要資料として現在の「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えた。

2010年1月8日金曜日

花びら餅 はなびらもち

ごぼうと白味噌餡とピンク色の餅を、餅もしくは求肥(*1)で包んだ和菓子。

平安時代の新年行事「歯固めの儀式」を簡略化したもので、宮中のおせち料理の一つと考えられてきたが、後に新年のお菓子として使われるようになった。

*1ぎゅうひ=もち米の粉をといて蒸したもの